現在位置と意思のベクトル
#2018-12-18 #エッセイ
「今がどうであるか」よりも「これからどっちに向かおうとしているか」を気にする、というお話。
約 10 年前に、とあるレストランでアルバイトをしていた。いわゆるホールスタッフ。お客さんから注文を取って、キッチンに伝えて、お料理ができあがったらテーブルに運ぶ。お客さんが帰ったあとのテーブルを片付けてきれいにする。そんなお仕事。
その店舗を任されているマネージャっぽい男、好き嫌いで相手に対する対応を変えるタイプのポケモンで、ぼくの苦手なタイプだった。だいたいこういうとき、その現場で、ぼくじゃない誰かが目の敵にされてひどい扱いを受ける。どうせならぼくを目の敵にしてくれた方が楽なのにな、と思った経験はこの人生で一度や二度じゃない。
そのレストランでは、とある主婦のおばちゃんが「ひどい扱いを受ける役」となった。小柄で、おとなしい感じのおばちゃん。ひどい扱いといっても、殴られるとか水を浴びせられるとかそういう暴行はなくて、休憩の取り方を教えてもらえない、とか、なにかと放置される感じだった。こうして書いてみると充分ひどいか。なんだったんだ、あのマネージャっぽい男は。器が小さいのか。
ぼくは、仕事帰りの移動でいっしょになったときや、客がいなくてヒマな日のホールで過ごすとき、そのおばちゃんのお話相手になった。まあ、不当によくわからん扱いを受けているし、ぼくがお話相手になることで少しでも気が紛れるのならそれは悪いことではないように思えた。最初は控えめに「こないだは、こんなことをされて…」と話してくれていたおばちゃんも、回を重ねることにぼくとのふれあいにも慣れてきて、堂々とした口調で愚痴を言うようになっていった。
ある日、ぼくは「ちょっと待ってくださいな」と言って、いつも通りに愚痴を勢いよく吐き出しそうになったおばちゃんを止めた。ぼくが愚痴を聞く係になるのはよいけれど、あなたが愚痴を言うことに慣れてしまうのはうれしくないと思っている、と、そんなことを伝えたと記憶している。やっと見つけた条件にマッチしたお仕事なのかもしれないけれど、愚痴に染まることに慣れた体になるくらいだったら別のお仕事を探した方がいいよ、という考えがあったのかもしれない。もう 10 年以上も昔のことだから事の細部までは思い出せないけれど、ぼくがそんなことを伝えたあとでおばちゃんが泣き出してしまったことは今でも覚えている。おばちゃんのどんな感情が涙になって溢れたのか、当時のぼくは確認しなかったし、今のぼくが想像してもわからない。ただ、泣き出してしまったという事実だけを受け止めていた。
ぼくは、考える対象について「現状がどうなのか」よりも「今後、どうなろうとしているのか」「どうなっていきそうなのか」の方に重点を置いて気にする傾向があるように思う。おばちゃんについて言えば、ひどい扱いを受けているという現状は充分にわかりつつ、今後も現状に甘んじようとしているように見えてしまって、気になった。なので、そのことについてぼくが感じていることを伝えるに至った。
たとえば後輩が「最近、大変なんです」という話をしてくれたとしたら「その大変な状況を、今後どうしていくつもりなの?」といった類の問いを投げかけることが多い。ああ、これ聞き上手じゃないとされるやつですね…まぁいいか。ともかくぼくはそういうことを知りたいし、実際に質問してしまう。
現状が素晴らしくてもこれから堕ちていくように見えるものにはあまり惹かれないし、現状が悲劇でも、そこから前へ上へと歩みを進めていく物語には心を動かされるのだ。ぼくはそういう人間なのだ。