「ふつう」と適切な距離で付き合っていく
#2018-10-23 #エッセイ
自分の県のお土産って食べるの? from はてな匿名ダイアリー
これがおもしろかった。この中に、
彼女言うわけよ。「自県のお土産を食べるのは普通のことでしょう」って。普通って何。俺は普通じゃないってか。料理ならわかるよ。沖縄の人がソーキそば食べたり、東北の人がずんだ餅作って食べたり、そういうのはわかる。でもここに並んでいるのは製品としての菓子じゃないか。観光客向けの菓子じゃないか。宮城の人が家でままどおるを食べるのか? 広島の人はもみじ饅頭を食べるのか? 北海道の人はバターサンド食べるのかよ! それ聞いた彼女、普通に食べるでしょ! だって。ありえない。バカじゃないの。
という一節がある。「ふつう」って本当に難しい概念だと思う。ここで「わたし/あなたはふつうかどうか?」という観点に陥らなければ、楽しい観光で終われたんじゃないかな〜と思うと悲しい気持ち。「わたしは、食べる」「ぼくは、食べない」「へぇ〜」「そっか〜」それで済んだ話なんじゃないかな、って、勝手に思ってしまって。
ぼくは日頃から「ふつうは、」という話の切り出し方を好まない。うちの妻はそのことをよくわかっているから、ぼくとの会話の中で「ふつう」の話が出てしまったときは咄嗟に「ふつう、の話はじゅんさんは嫌いだとは思うけど、」とフォローを入れたりする。気を遣わせていると思う。こんなぼくといっしょにいてくれてありがとう。
「ふつう」には正解がないから「ふつうかどうか」の話は決着が難しいし、決着したとして得られるものは大してないと思う。もっと別の軸を判断軸にした方がいいと思っているので、ぼくはそうしている。たとえば夫婦間の意思決定であれば「他の家庭ではどうしているか」「なにが多数派か」よりも「自分たちに合っているかどうか」という軸で会話をするし、ウェブアプリケーションのユーザインターフェイスを考えるときは「他のアプリではどうなっているか」を参考にはするけれど、最終的には「自分たちのアプリケーションの利用者がストレスなく使えるかどうか」という軸で決めたりする。
ことさら、お仕事やらなんやらとは無縁な個人同士の会話の中で「ふつう」を持ち出されると、妙に悲しくなってしまう。せっかくあなたとわたしの間で会話を楽しんでいるのに、どうして「ふつう」だなんていう第三者を連れてきちゃうの?頼むから、お願いだから、あなたの考えを聞かせてよ!という気持ちになってしまうのだ。
あなたが仮に「ふつう」であっても、仮に「ふつう」じゃなかったとしても、ぼくはそんなあなたを尊重したいと願っているし、そんなあなたの一面を発見できたことを喜びたいと思っているんです。
一方で。先週くらいから話題になっている、自殺者を出してしまったとある企業について。
ああいう対象に触れたときに「なにかやばい」と察知できる感覚は、とても大事だと思う。悪い方の意味での「やばい」というやつ。ぼくはそういう危険察知はある程度はできる方だと自覚していて、やばい対象にはとにかく関わらないようにして生きている。じゃあその「やばい」というのは、どうやったらわかるのか。学生生活を終えて、最初に触れ合った大人がやばいやつで、そいつにいろいろと言われて丸め込まれてそいつの経営する会社で働き始めて、ときには楽しいことうれしいこともあったりして、でも傍から見たら明らかにやばくて、なんとかそれに気付いてほしいとなってしまったとき。どうやったら「やばい」と気付けるのか。
さっき言ったことと矛盾するようだけど、やばい状態を知るために「ふつう」を知っていくことになるんだと思う。もっと真面目に丁寧に言えば「たくさんのサンプルを知る」ことになるのだろう。その結果として「ふつう」と「やばい」がわかるようになる、といったところだろうか。
いろんなものを自分の目で見て、自分の手で触れて、自分の肌で感じていくのはとても贅沢で、重要なことに思う。そうして「ふつう」や「やばい」や、他の形容詞たちに表されるような感覚を身につけていく。
肝心なのは「感じられるようになること」であって、決して「振り回されること」ではない。ぼくはこれからもっともっと「ふつう」を知っていくだろうし、だからといって「ふつう」に流されないように、自分として、自分たちとして生きていく。