この国における「不倫」の位置付けについて

#2018-09-26 #エッセイ

2018 年 9 月現在の日本において「不倫」というものが社会の中でどういう位置付けになっているのか。ぼくが感じていることを書く。

この社会は「不倫」をどのように扱いたいのだろうか。たとえばもし「絶対の悪」として扱いたいのなら、犯罪ということにしてしまえばよさそうに思える。だけれど実際にはそうはなっていない。社会通念だなんてものが存在し得るのだとしたら、おそらく「不倫は、よくないもの」となるのだろう。そんな気配は感じる。ただ、明確に犯罪ということにはなっていない。他人を絶命させたり、他者の所有物を破壊したり奪取したりすると逮捕されるが、不倫をしても逮捕はされない。

不倫を「よくない」と論ずるのは簡単だが、どれくらいよくないものとするのかは自明ではなさそうだ。一夫多妻を受け入れている文化圏のことを視野に入れると、そもそも「不倫とは、なんなのか?」という問いとも向き合うことになる。

しかし、政治家や芸能人など、名前や顔などのパーソナリティが広く知られている人々の不倫が発覚すると、まるで一種の儀式のように民衆がこぞって石を投げるのが現代のこの国の在り方だ。これは、どういう状況なのだろうか?

  • 不倫そのものではなく「不倫の発覚」が、ある種のエンターテイメントになっているのか?
  • 飢饉に苦しんでいた時代の「生贄」にも似たようなものを感じる
  • 落ちると危ない穴があいているが、誰もそれを塞ごうとはせず、誰かが穴に落ちるのを心待ちにしているような感じ

だとしたら、ぼくはそんな儀式的なアレコレにはいっさい関わりたくないし、その輪の内側ではなく少し離れた外側に身を置きたいと考えている。

お酒、煙草、パチンコ、自動車道の制限速度のような、非常にグレーな、それでいて真っ黒ということにはしたがらない、まるで社会にはこういうものが必要なのだと言わんばかりに深く突き刺さった、そういう性質のものなのかもしれない。


ちなみに、ぼく個人は不倫に対して特にはっきりとした意見は持っていない。身近なところで不倫の実例を見たことがないのでピンときていないというのが正直なところだろうか。

自分は不倫をしようと思ったことがないけれど、先にも書いた一夫多妻のこともあり、「ある個体は、生涯のうちに心に決めた個体としか関係を持つべきではない」とも思えないし、みんな好きなように生きたらいいと思う。ただ、自分の都合で大事な人を一方的に傷つけるやつは信用できないとは思うので、多数の個体と関係を持ちたいのならそうと公言してやったらいいと思うし、それを許容してくれる人とのみ関係を持てばいいと思う。一文の中で「思う」が 3 回続いたのは少し感情的になったからで、結果的にふにゃふにゃした文章になったと思う。