自分は果たして、今よりスマートに暮らしたいのか?
#2018-05-19 #エッセイ
スマートフォン、スマートウォッチ、スマート家電、などなど。ここ 10 年くらいはスマートを冠したプロダクトが増えているように見える。ぼくにはそう見える。
たしか高専の寮に入って最初に定期試験の前日を迎えたとき、その晩の宿直担当だった教官 (いま顔は浮かんでいるけれど名前は思い出せないなあ) が明け方にそこらを散歩していて、たまたまお話する機会があって。「スマートってどういう意味かわかるか?」って唐突に聞かれたんだっけ。「高専生はもっとスマートになった方いい。痩せろ、って意味じゃないぞ?」とかなんとか言っていて。なにしろ 20 年近く前のことなのでどこまで事実にそった記憶なのかはわからない。そして話も逸れている。
さて、ぼくは「スマートに暮らしたい」のだろうか?明確にそう思ったことはない気がする。きっと「楽しく暮らしたい」「退屈せずに暮らしたい」とは思っている。ぼくの感覚はこっちに近い。ほいで、楽しみながら退屈せずに暮らすには「無駄だと感じちゃう作業」や「おもしろくない作業」からは解放されたくて、そのために最低限のスマートさを求めることになるんだと思う。
スマートフォン、たしかにスマートっぽい感じがする。ぼくはいま、Qwerty キーボードをガチャガチャさせながら打ち込んでいるわけだけれど、これはあんまりスマートじゃない。ガチャガチャしているとスマートから離れるっぽい。でもぼくは、このガチャガチャした感じは好きだ。実は Scrapbox にもガチャガチャした肌触りを感じていて、それも好きだ。ぼくにとってのインターネットとウェブは、けっこうガチャガチャしていて、ワチャワチャとにぎやかでもある。あんまりスマートじゃない。
Twitter や Facebook の iOS 向けアプリはスマートに感じる。整っているように感じ。けれどもぼくには、それが少し窮屈だ。リンク先を見に行っても、見終わったら元の場所に戻るように約束させられている。ぼくはもっともっと遠くに行きたい。ウェブの大地を、目的地も決めずに、気まぐれにさまよいたい。ぜんぜんスマートじゃないかもしれない。泥だらけになって遊びたい。
ぼくはあんまり「スマートでありたい」と思っていないのだろう。楽しく暮らしたい。Slack をそれなりに好んで使っているのはスマートだからではない、楽しいからだ。